大内宿

大内宿

福島県南会津に位置する大内宿は、かつて会津若松市と日光今市を結ぶ重要な街道、会津西街道(下野街道とも)の宿場町でした。30軒以上の茅葺き屋根の民家が並ぶ風景は、時の流れを感じさせ、年間約80万人の観光客に愛されています。
この地は、昭和56年に国から「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、住民は「売らない・貸さない・壊さない」の三原則を掲げ、その美しい景観と伝統を守っています。江戸時代には、大名や商人、旅人たちがこの地を通行し、特に伊達政宗や豊臣秀吉も大内宿を訪れたという記録があります。
明治期には鉄道が開通し、宿場としての重要性は薄れましたが、その後の交通網の発展が大内宿を迂回したことで、古い町並みが保存されました。現在でも、その景観と暮らしは四季折々に賑わいを見せています。
特に毎年2月には「大内宿雪まつり」が、7月には800年の歴史を持つ「半夏まつり」が開催され、多くの人々でにぎわいます。
大内宿は、日本の歴史と文化、美しい風景を一堂に感じられる貴重な場所です。そのため、次世代にもその価値をしっかりと伝えていく重要な存在と言えるでしょう。

基本情報

名称
大内宿 (おおうちじゅく)
所在地
福島県南会津郡下郷町大内山本
アクセス
会津鉄道会津線湯野上温泉駅からタクシーで15分
駐車場
駐車場 あり
営業時間
見学自由
連絡先
電話番号:0241-68-3611
FAX番号:0241-68-3611
公式サイト

マップ

詳細情報

▶宿場町の形成
大内は、江戸時代に下野街道の一宿場として栄え、明治以降、交通路の変化により開発を免れ、昔の面影を今にとどめています。この街道は、すでに鎌倉の時代から会津と関東を結ぶ街道としてかなりの往来がありました。
しかし、街道の整備は行きとどいていなかったようです。各地の街道の整備に力を入れたのは戦国の時代からで、全国統一の一環として行われました。
徳川幕府がこれを継ぎ、五街道の幹線やその付属の諸街道に対して支線の意味で、脇往還、脇道などとも呼ばれていました。下野街道は、一つの脇街道であって幹線に比べると小規模であり、街道も宿駅も不備であったようです。また、大内は若松へは約四里半(十六・ 五㎞) 田島へは五里(二十㎞)当時の一日行程は約八~十里であり、大内宿は中宿にあたり、本街道の間宿にあたり昼 食のための休憩の宿場でありました。
大内宿が形成されたのは、同じ街道筋にある川島宿が承応三年(一六五四 年)にできたことから考え、ほぼこれと同じ頃と考えられています。江戸時代の街道整備は、徳川幕府の支配体制の確立と関連しており、この頃すでに、五街道 を初め脇街道なども整備されました。
▶語り継がれる高倉宮以仁王伝説
治承四年(1180年)5月、平家追討を目的に源頼政と共に挙兵した後白河天皇の第二王子高倉宮以仁王は、宇治川の戦いに敗れ、奈良へ敗走途中流れ矢に当り薨ぜられています。しかし大内集落には、以仁王は無事都を脱出して大内に辿りつき、数日間滞在したあと再び越後国を目指して旅立って行ったという伝説が残っています。
当時山本村と呼ばれていた大内集落は、宮中の大内裏にちなんで宮が「大内」と名付けられたと伝えられ、「春は花 秋は紅葉の錦山 東の都 大内の里」という一首も残されています。
王子を高倉大明神として観請し明治3年5月18日高倉神社と改めて今もなお、村の鎮守として祀られています。
以前は、高倉宮以仁王(たかくらの みやもちひとおう)を敬い5月に祭礼を行っていましたが、田植えに時期と重なり大変忙しいため、一年の半分である「半夏生」に祭りが移されて現在の「半夏祭り」となりました。
この辺りでは、雪が多いため田植えの時期が遅く、「半夏祭り」までには田植えを済ませる様にとなりました。
▶現在の大内宿
1981年(昭和56年)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、年間80万人を超える県内有数の観光地となりました。現在も大内宿を守る住民憲章「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り、大内の景観・伝統的な屋根葺きの技術を未来へ繋いでいく活動を続けています。