弘前城

弘前城

弘前城は、弘前市の弘前公園内に位置し、日本最北端の現存する天守を有する重要文化財です。慶長8年(1603年)に津軽為信が計画し、1610年に完成しました。築城当初の形態が良く保存されており、天守閣だけでなく、5棟の城門、3棟の櫓(やぐら)も国の重要文化財に指定されています。
弘前公園は四季折々のイベントで知られ、春の「弘前さくらまつり」は約200万人が訪れる大イベント。2600本の桜が咲き誇り、「花筏(はないかだ)」と呼ばれる桜の花びらが水面を埋め尽くす美しい光景が広がります。秋には「弘前城菊と紅葉まつり」、冬には「弘前城雪燈籠まつり」が開催され、季節ごとに美しさを楽しめます。
近隣には「津軽藩ねぷた村」や「藤田記念庭園」、そして有形文化財を活用した「スターバックス コーヒー 弘前公園前店」などがあり、多角的な楽しみが提供されています。
このように、弘前城は歴史、自然、文化が融合した場所であり、その美しさと深い歴史が多くの人々を惹きつけています。是非一度、その魅力を自ら体感してみてください。

基本情報

名称
弘前城 (ひろさきじょう)
所在地
〒036-8356 青森県弘前市下白銀町1
アクセス
◆JR弘前駅から徒歩30分
◆JR弘前駅からタクシーで10分
◆JR弘前駅からバス15分、市役所前下車、徒歩5分
駐車場
駐車場 なし
営業時間
9:00~17:00
さくらまつり期間 7:00~21:00
料金
大人(高校生以上)310円
子ども(小・中学生)100円
連絡先
電話番号:0172-33-8739 弘前市役所 公園緑地課
FAX番号:0172-33-8739 弘前市役所 公園緑地課
公式サイト

マップ

詳細情報

弘前藩初代藩主である津軽為信が、主家である南部氏からの独立を果たし津軽地方を統一したのが1588年(天正16年)のことでした。
その後、為信は津軽地方を治めるために新たな城を築くことを決意し、現在の弘前の地を選定しました。これが1603年(慶長8年)のこととされています。当時、この地は旧名の高岡(鷹丘)と呼ばれていました。
▶築城の計画
築城計画はなかなか進まず、為信は完成を見ることなく1607年(慶長12年)、京都にて客死します。
父の遺志を継いだ第2代藩主信枚が高岡城を完成させたのは、1611年(慶長16年)のことでした。完成当初、高岡城には5層の天守がそびえていました。現在、本丸未申櫓跡となっている石垣が、当時の天守台であったのです。
しかし1627年(寛永4年)、この5層の天守は火事により失われてしまいました。土地の旧名である高岡が、現在の弘前に改められたのはその翌年のことで、これには魔除けの意味がこめられていたと言います。
▶そして現在へと至る天守
その後、長らく弘前城は、天守を持たぬ城となりました。これは、幕府から弘前藩に対し天守新造の許可が下りなかったためだと言われています。
現在残っている3層の天守は、1810年(文化7年)に弘前藩第9代藩主寧親の治世に築かれました。その当時、現在の場所にあった本丸辰巳櫓を解体して新造されたものとされています。
幕府から天守新造の許可が下りた理由としては、この数年前に弘前藩が蝦夷地(北海道のこと)警備の任にあたってその功績が認められたことや、当時、ロシア船が津軽海峡を往来し、その防備のため、という説が一般的です。
また、この建物はあくまで天守の代用であって、当時は「御三階櫓」と呼ばれていた、とも言われています。
▶現在の天守
建築年こそ新しいものですが、濠側の東・南両面には鉄扉を付けず、矢狭間だけとし、また1・2層にはその中央に張り出しをつけ、切妻破風・石落としを設けるなど、古形式を特徴としています。
また、5間×6間の初層平面に対し、2層、3層と各一間ずつ小さくなる層等式の建築となっており、二の丸側から天守を見た時、切妻破風と狭間によってその印象を大きく見せようとする工夫が凝らされていると言われています。
一方で、本丸内側から見た北・西両面には破風も狭間も無く、採光を考えて窓も大きくされています。 江戸時代に建築され現存する天守としては、東北地方唯一のものであり、小規模ではあるものの、全国の天守の中でも代表的なものとされています。
仮天守台に移動した現在は主に弘前城天守曳屋の資料が展示されています。見学は無料ですが、本丸への入場料金が別途必要になります。